当社は、前身である「日窒航材工業株式会社」が1945年3月12日、宮崎県延岡市に設立されて以来、2020年に創業75周年を迎えました。創業から間もなく発売された「AVライト成型材料」および「ASAHI AVバルブ」は、今もなお当社の主力商品として、世界の産業を支え続けております。75年以上にわたる当社の歩みをご紹介します
終戦の年の1945年3月、現在の旭化成株式会社の関係会社として、日窒航材工業株式会社は誕生しました。
戦後を迎えた1945年11月、社名を「旭ベニア工業株式会社」と改称。
1946年、旭とベニアの頭文字をとった「AV」をブランドとして立上げ、成形材料「AVライト」として販売。
1950年、当時急速に普及しつつあった電話機を製造するための、フェノール樹脂成型材料の量産を開始。同年、社名を「旭有機材工業株式会社」に。
プラスチック成形としては世界初となる樹脂製バルブ、「ASAHI AV」バルブの誕生。
耐薬品性に優れ、耐圧性を確保した軽いバルブ、「流線型プラスチック製ダイヤフラムバルブ」を世界で初めて開発、薬液ラインの救世主となった。
「アルファルファ―バルブ」「アングルバルブ」が全国に指定品として広く活用され始めた。これが、農水分野への出発点となった。
資源開発事業では、日本各地の地熱発電開発、そして、掘削本数や総延長で日本一を誇る温泉開発など、さく井(さくせい)の分野で、国内有数の事業を展開。水処理事業では、大規模上下水道施設をはじめ、産業廃水処理施設など、幅広い分野に進出しています。
創業70周年を迎え、4月1日に社名を「旭有機材株式会社(ASAHI YUKIZAI CORPORATION)」に変更、またコーポレートロゴも新たに生まれ変わり、創業100周年へ向けて新たなスタートを切りました。
第二次世界大戦も終盤となる1943(昭和18)年、戦局の悪化にともないさまざまな物資が不足する中、イギリス空軍で活躍した木製爆撃機に刺激を受けた日本政府により、国内でも木製飛行機を製造する計画が動き出した。政府より飛行機用治具の生産を要請された日窒化学工業株式会社(現・旭化成)は、日本統治下にあった朝鮮の永安(ヨンアン)工場で製造を開始した。永安工場は、1941(昭和16)年12月26日に日本窒素肥料株式会社が朝鮮窒素肥料株式会社を合併してできた工場で、当時は石炭を低温乾留して、メタノール、ホルマリンなどを製造していた。合併後、野口遵(のぐち したがう)氏の指示で、その製造過程で生じた残渣酸性油からベークライトレジンを作る研究が行われた。この技術を活かし、木材をベークライトレジンで加工した治具が、金属代替品として登場した。しかしながら、永安工場の生産能力では政府からの大量生産要請には追いつかず、宮崎県延岡市にベークライトレジン製造技術を移管する計画が進められた。延岡工場では分析係長・川畑茂氏(旭有機材工業元専務)が、ロイドを主材にベークライトを張り合わせた治具の製作研究を進めた。同年、政府は木製飛行機の大量生産を表明。これを機に治具製作にとどまらず、機体となる合板の製作も開始することとなり、航材工場をレーヨン工場(宮崎県延岡市)に設置すべく、社員が奔走した。
翌1944(昭和19)年、年明け早々永安工場に赴いた 川畑氏は製造技術の習得とともに、工場設計図を完成させて1月下旬に帰任。さっそく3月からレーヨン工場内にレーヨン部が設置され、航材工場の建設が始まった。5月に行われた工場建設会議には、全国から航空機メーカー(三菱名古屋、中島飛行機など)が集結した。この時点での生産能力は、500トンプレス1台が稼働して治具を生産する程度であった。工事が進行する中、レーヨン工場レーヨン部は、新たに有機材部航材課に改称された。航空機用特殊強化合板を製造するにあたり、当初、朝鮮(仁川の大成ベニア会社)より単板(木材の板)を調達し、延岡で製造したベークライトレジンで加工する予定であったが、戦局の悪化により対馬海峡の横断も危険となり、単板の入手が困難となった。そこで、林産県である宮崎で自給することとし、日窒化学工業社内と有力木材商関係者からなる、単板製造を目的とした会社設立が提唱された。これをうけ、「日窒航材工業株式会社」(当社)が1945(昭和20)年3月12日に設立された。
1946(昭和21)年10月、2代目社長に旭化成工業常務取締役延岡工場長の飯島貞雄氏が就任。同年12月12日、当社商標を「AV」と定めた。由来は、アサヒ(Asahi)の「A」とアルファベットの一番初めの「A」、べニア(Veneer)の「V」と勝利(Victory)の「V」を取り、組み合わせたものである。創業当初より販売してきたフェノール樹脂成型材料「アサヒライト・コンパウンド」の商品名を、商標制定に合わせて「AVライト」に変更した。その後、「AV」製品は数々の名声を生むこととなる。
社員が考案した松葉デザインの社章1948(昭和23)年に行われた社章募集コンクールで全社員から作品を募ってできたものである。デザインは女性社員から応募されたもので、べニア板原木が松の木であり、松葉を広げた形を重ねたものが商標のAVに似ていることに由来する。これを基に社章が作成され、2016年3月まで当社社章として使われた。 (1945(昭和20)年12月入社の江川益栄氏手記より)
製材事業の一方で、本業である合成樹脂成型材料事業も順調に業績を伸ばした。1950(昭和25)年、石炭酸系合成樹脂成型材料事業が電通省電気通信研究所規格に合格。電話機用の優秀品の試作に成功し、沖電気工業株式会社の「4号形電話機」に採用された。この製品は、AVライト成型材料を納入し、沖電気工業で成型したものである。4号形電話機は1963(昭和38)年まで約400万台が生産され、うち沖電気工業で150万台を生産した。(沖電気工業株式会社ホームページ『OKIの歩み、時代とOKI 第5回戦後、電話の復興に向けて』より)その後も、石油酸系合成樹脂成型材料事業はさらに好評を博し、旭化成工業の紡糸機部品の注文を受けるなど、需要は増加を続けた。1950(昭和25)年11月27日、木材をはじめとした有機物(フェノール)を素材とする合成樹脂を主体とした事業に転換することを決定し、「旭べニア工業株式会社」の商号から「旭有機材工業株式会社」に改称。産業界は戦後の新しい時代を迎えていた。
1953(昭和28)年頃、パイプとプレートを溶接加工したストップバルブはすでに世の中で製造されていたものの、大型なうえシール圧力が低いという問題があった。 そこで、当社の継手成型技術の応用が検討された。金属製バルブを参考に、ストップバルブの構造が継手の形状に似ていたことから、構造上金形成型が可能と判断。水圧コンプレッション成型により試作に着手した。1956(昭和31)年3月、金属部品を一切使用しないオールプラスチック成型品ストップバルブの製造に世界で初めて成功し、口径50mmまでの販売を開始。強度面でも格段に向上した製品の好評を受けて、1961(昭和36)年には100mmまでラインナップを拡充した。ここから管材システム事業の主力ブランドとなる「ASAHI AV」の歴史が始まった。